「話し相手がいないんだよ!」
斜め後ろあたりの席に座っいる高齢男性の半泣きの声が、突然耳に飛び込んできました。
振り返って見るのも気が引けた。
明らかに老人の声、切羽詰まった感じが伝わってきました。
高齢者の幸せとは何だろうか?
少し前から老人の話す声が聞こえていたのですが、本を読んでいたので耳に入れないように意識していました。
しかし、この「話し相手がいないんだよ!」という悲痛な叫びを聞き読書どころではなくなりました。
会話の内容から、老人は最近グループホームに入居し、そこでの寂しさを涙ながらに訴えていた。
電話の相手は身近な親族らしく、老人の話を聞き入れて、なぐさめている様子です。
老人はグループホームでの寂しさに耐えかねて飛び出し、電話するためにこのカフェに来たのです。
家族が老人の一人暮らしを心配してグループホームに入居させたのかもしれません。
寂しい!
楽しくない!
職員はいつも一言多い!
次々に心に刺さる言葉が発せられました。
他の客や店員を気にする余裕はなく、孤独であることを理解してほしい、何度も何度もおなじ言葉が続きました。
「どうしたら良いか全く分からない!」
明らかに助けを求めている。
レジから近い席だったため、たびたびコーヒーを曳く音に話し声が掻き消されたが、自分が置かれている状況をこと細かく話している様子で、かなり長時間の通話でした。
可愛そうだと思いながらもどうすることもできませんでした。
近い将来の自分の姿ではなかろうかと思いました。
グループホームの母の事
昨年89歳で亡くなった母もグループホームに入居していました。
72歳の時に父と死別後、大分の田舎の住み慣れた大きな一軒家に気丈にも一人暮らしをしていました。
健康面の不安もあって兄弟と相談してグループホームに入居してもらいました。
亡くなるまでの約3年間はグループホームでの生活でしたが、アルツハイマーを発症していました。
福岡に住んでいる兄と弟とその家族が頻繁に会いに行ってくれていました。
両親は若い時に洗礼を受けて以来クリスチャンだったので日曜礼拝の後に教会の兄弟姉妹がグループホームを訪れてくれていました。
母の悲痛な声を聞いたことはありませんでした。
この老人と同じように寂しい思いをしていたかもしれないと、とても辛い気持ちになりました。
政府は人生100年時代構想会議を設置したが、100歳まで生きて本当に幸せなのだろうかと思います。
「高齢者の幸せ」とは一体何だろと考えさせられました。
高齢者の幸せ「健康」
私は、自身の健康もさることながら周囲の人が健康であってほしいと願っています。
特に子どもの健康には幸せを感じます。
子どもが二人いましたが、長女を23歳で亡くしました。
子どもには健康であってほしい、特別な事など期待していません。
次に妻の健康、そして私たち夫婦の兄弟姉妹が健康であってほしいと願っています。
そして、友人、知人に対しても同じ気持ちになります。
自身も健康であれば、自由に外出できるし旅行にも出かけることができます。
なんといっても人のお世話にならず、自立した生活を送ることができます。
しかし、自分も含めシニアになれば健康状態は変化しやすく、皆がいつまでも健康であり続けることなどありえません。
今、周囲の人が皆健康であることは奇跡かもしれません。
高齢者の幸せ「友人がいる」
自分の悩みなどを相談できる友人や知人がいれば幸せです。
高齢になれば友人に先立たれる可能性もあります。
この老人もSNSで誰かとつながっていれば少しは孤独を解消できるかもしれないと思いましたが、
老人は生身のコミュニケーション、触れ合いを求めていると思いました。
この老人が良き介護者や話ができる同居人に出会えることを祈らずにはいられませんでした。
高齢者の幸せ「美味しいく感じる」
食べ物を美味しく食べられるのは幸せなことです。
美味しく感じるのは健康ともリンクします。
最近は食べる量は少なくなったけど、少しの量でも食べ物を美味しく頂けることに幸せを感じます。
夕食には必ず日本酒を頂くのが習慣になっています。
お酒を旨いと思わなくなったら、やはり寂しいと思います。
ケーキやチョコレートなどの甘い物も好きなので、美味しく頂けることに感謝しています。
高齢者のしあわせ「笑顔」
良好な人間関係もしあわせの大きな要素です。
思いやり、お互いに笑顔が絶えない関係は幸せです。
身近な家族の笑顔、社会で触れ合う人たちとのお互いの笑顔、笑顔は心温まり明るい気持ちになり元気の源です。
周囲の人が困っていて、自分の経験や知識をもとにサポートすることができたら、感謝の笑顔に触れ幸せな気持ちになります。
この老人に話しかけ、何か手助けできないかとも考えましたが、悩みの質が重たく私にはハードルが高すぎました。
周囲の人の笑顔が消えたら、気持ちも沈んで暗い日々を過ごすことになると思います。
老人の心境が胸に刺さるほど理解できました。
長生きすることが本当に幸せなのだろうか
幸せの感じ方には大いに個人差があります。
高齢者には、幸せとは対極にある不安を考えるときりがありません。
高齢者は生きていれば親しい人との別れが多くなります。
自分が先に逝くことも含めて、もし、自分が残された者となった場合、現状を受け入れて安らかに生きていけるだろうか。
この老人の様に寂しさの極地に置かれたら、冷静でいられるだろうかと考えてしまいます。
更に高齢化が進み、老人のような境遇の人が間違いなく増えます。
高々1世紀余りで人の寿命が2倍になりました。
医療の発達によって長寿を勝ち取ったはず、果たして長生きすることに本当の価値があるのだろうか。
余りにも短期間に長寿を手に入れたため、老後の健康維持や孤独を解消する手段をまだ持っていません。
話は飛躍しますが、ips細胞やAIがどんどん進化しています。
人類は、近い将来老化を止めることに成功するかもしれません。
家族や友人のコピーロボットが誕生したら、孤独を感じずに生きられる時代が来るかもしれません。
世の中にコピーロボットがあふれたら、逆に生きていることに意味があるのだろうか。
人は毎日些細な喜びがあれば生きていけるのです。
生きていれば苦痛の連続、でも些細な喜びが多いほど幸せなはずです。
例えば、朝気持ち良く目覚めた。
いつものように気持ち良く「おはよう」の挨拶を交わせた。
今日やりたいことが浮かんでくる、などです。
あの老人もこんな些細な喜びで満足するはずだと思いました。
この老人には些細な喜びもなく、独りで寂しいのです。