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シニアになっても色々な事にチャレンジ、自分探しはとても幸せで奇跡の時間です。日々体力の衰えを感じながらも今日出来る事を一つずつ積み重ねていきたいと思います

シニアが若者の道徳観に怒り「足を踏んだ」に謝罪されない満員電車の社会倫理について

ある晩、疲れ果てた会社勤務の帰りに、満員電車の中でちょっとした出来事がありました。

混雑の中、足元がつかえるほどの込み具合でしたが、私は何とかバランスを保ちながら揺られていました。

その時、どうやら後ろに立っているシニアの方が若者に足を踏まれたらしく、しかし、若者からは謝罪の言葉はなく「どうして人の足を踏んでおいて、一言もないんだ!」と、怒りを爆発させました。

無視を続ける若者

その後もサラリーマン風の若者は謝罪の一言を口にせず、そのシニアは憤慨のあまり、「お前みたいなのがいるから、日本はダメになっていくんだ!」と暴言に近い言葉を吐きました。しかし、若者は一切無視をし続けました。

その光景は、まるで感情の壁が二人を隔てているかのように思えました。シニアの怒りは爆発し、その若者の心には何も届かなかったのです。彼は冷たい沈黙を保ち続け、自分の世界に閉じこもっているかのようでした。

この出来事は、現代社会の一端を象徴しているように思われました。言葉の重要性や他者への思いやりが薄れ、個々の利益や快適さが優先される風潮が広がっているのかもしれません。しかし、この冷たい無視の背後には、お互いの孤独や心の痛みが存在しているのかもしれません。

私は電車の中で、その緊張感漂う空気に包まれた瞬間、心の痛みを感じました。

互いに思いやりを持ち、一瞬の出来事に対しても寛容な心を持つことの大切さを改めて思い知らされました。

もしかしたら、その一言の謝罪が二人の心に微かな光明をもたらしたのかもしれません。

相手への思いやりが必要では?

私は66歳、電車通勤を始めて早くも40年が経ちます。

この長い間、何度も足を踏まれたことがあるし、自分自身もうっかり踏んでしまったこともあります。

しかし、私にとっては当たり前のことだが、足を踏んでしまった場合、反射的に「ごめんなさい」という謝罪の言葉が口から出てきます。それは幼少期の道徳教育の影響だと思いますが、人としての基本的なマナーであると思っています。

電車の中での出来事を目の当たりにした私は、若者たちの無関心さに対して心を痛めました。

時には忙しい毎日に追われているかもしれないが、他人の足を踏んだ際には、少なくとも一言の謝罪の言葉を口にするべきだと、

それは、ただの言葉ではなく、相手に対する思いやりや敬意の表れなのです。

人間関係は、微細な瞬間の積み重ねで形成されていきます。

私たちは、些細な行動や言葉によって他者との絆を築いていくことを忘れてはならないと思うのです。

足を踏んでしまった時には、謝罪の一言が、人々の心にやさしさや思いやりを与え良好な関係が築けるはずです。

謝罪は正常な社会を築く上でとても重要

老若男女ともに密集した満員電車で、足を踏まれたときに、その当事者間で話し合い、謝罪をすることが大切です。

では、なぜ若者たちは謝罪しないのでしょうか?

その答えは、その世代が取り入れる文化、教育、道徳観にあると言えます。正しい行動を取ることは、社会的な評価を正当化する方法であると考えます。

当事者間で話し合い、共感や理解を示すことは、より良い社会を築くために大変重要です。

道徳教育の必要性

若者たちがもっと道徳的になるためには、教育が必要不可欠だと思います。私たちが小中高の頃は必ず道徳の時間がありました。

今は、家庭、学校、そして社会全体での教育が求められていると思います。

家庭では、親が子供たちに正しい価値観を教えることが重要です。例えば、家庭内でのマナーやモラルを教えることができます。

学校での教育は、社会との接点の一つでもあります。道徳の授業やクラブ活動で、より深いレベルの教育をすることができます。

社会全体での教育は、多様な背景や価値観を持っている人々が交流することができる場として、非常に重要です。

若者たちは、古い価値観に固執するシニア世代が存在する中で、自分たちの考え方を発信する場が必要です。また、シニア世代も若者たちとのコミュニケーションを通して、価値観の多様性を受け入れることができます。

教育によって、若者たちはより幅の広い視野を持つことができます。若者たちが道徳的な人間になることができれば、社会全体にプラスの影響を与えます。

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